17歳たちの肖像

息子の17歳の誕生日に、息子のクラスメイト3人が泊まりで遊びにきた。

みんな初めて会う子たち。

話には聞いていたけど、イメージしていた以上の素敵な個性の持ち主達で驚く。

美しい風景に出会うと、携帯ではなくカメラを取り出して撮る。全員がカメラの授業をとっていて、プロとして活躍している先生の影響を受けているからだ。

空の美しさに敏感。

アーティスト気質。

話がおもしろい。ボケ方もみんな個性があって楽しい。

公園でキャッチボールしたり、ピザパーティをして、みんなでハッピーバースデーを歌いながらケーキのロウソクを息子が吹き消して、それを動画に撮って爆笑。

そのあとお風呂に行ったりと、

やや大人の忘年会のような様相を呈しつつも、

色んな刺激をもらえて楽しかった。

若い人のエネルギーや新しい文化に触れると、元気になれる。

しかし、17歳たちは、実にピュアでフレッシュだけれど、その人生は順風満帆そのものというわけではない。

 

それぞれにその年齢ならではの悩みや葛藤も抱えていて、そこはかとない悲しみや、人生に対する諦観も湛えている。

兄弟との問題。

両親との問題。

進路の問題。

コンプレックス。

オリジナリティの模索。

それらの問題は、時と共に解決されるのかもしれないし、されないのかもしれない。

大人の目から見たら、その年齢ならではの一過性の問題のようにも見えがちだが、

本人たちにしたら、それはずっと前からどうしようもない問題として心に重くのしかかり、
そのことに悩み苦しみながらも、未来に対する美しい希望と諦めも、同時に抱いているのである。

その姿を見ていると、自分と何が違うのだろうと思う。

倍くらい世間に揉まれて、現実を見てきたつもりだったけど、何かを余計に知っているわけではないような気がしてくる。
むしろ、楽になっているかもしれない。

でもそれは、幸せになっているというわけではなく、自分や他人をごまかすのがうまくなっただけではないかと、焦燥感にも駆られる。

この子たちに夢を生きて欲しいし、

疲れた大人になって欲しくないなぁと思う。

でも自分はどうなのだろう、と。

そのためには、自分がまずはそのような大人になることが、唯一できる貢献なのではないかと思うし、

今の自分がどれだけそれを実現できているだろうと考えると

焼かれるような想いがする。

世間の荒波からこの子たちを守りたいと、強く思うけれど

でも本当の愛なら、

世界は荒波にまみれているのではなく、優しくてエキサイティングな場所なんだと思えるような

そんな世界を創り、与えることだろう。

私はなんだか子どもたちを人質に取られているような気もしながら、

私の心を大きく揺さぶったこの邂逅に、何か運命的なものを感じ、

愛おしさや深い感謝と共に、

なぜか悲しくてたまらないような気持ちにもなるのである。

明け方まで笑い声が聞こえていた、この4人の、ずっと続くかのように思えるこの時間が、

実はもう二度と戻ってくることはなく

これからみんなのレールはどんどん分かれて行き、何年か後にはもう交差することもなくなるかもしれないこともよく見えて、切なくなるのである。

だからこそ今この瞬間が尊く素晴らしいことや、

ひとりひとりの存在がかけがえのないものだということは、

17歳にはまだ実感を伴わないということもよくわかるから、そのような年寄りの訓示的なものは言わずに、沈黙する。

若者をそのような目で見るようになったことが、私が歳をとった証拠なのだろう。

物事の見方に深みを増したのか、

ピュアさを失っただけなのか、

よくわからないなと思いながら

ただ祈るような気持ちで、彼らの未来が多くの祝福と加護と、
幸福で満たされるようにと、願う。

そして、そんな未来のために、私もできることをしていかなければと、

自由になり、自由を与え

好きなことをして、好きなことをさせてやりたいと、

ザワザワする気持ちが収まらないままにそう思い、

たくさんの大事なことや自分との約束を思い出す日が、奇しくも息子の17歳の誕生日であったことに

何か啓示のようなものを感じるのである。