秋の気配

家族4人で山に来ている。

秋になると、山にきのこを採りに行くのは、

私が小さい頃からの家族行事だ。

ただし、父母の山への熱意は、実に家族行事以上のものがあり、

2人の職人性が発揮される場でもあった。

私は山から滑り落ちてトラウマになることもあったし、

両親は山で熊にも何度か遭遇したりしている。

それでも、2人は山へ行くことを決してやめなかった。

父はもう亡くなっているので、あの頃の熱意を引き継いでいるのは

母だけになり、兄と私と息子は、母の付き添いのような形だ。

母もさすがにもう高齢なので、滑落しそうな険しい山には分け入らなくなった。

山へ行く日の朝は、とんでもなく早起きをして暗いうちから出発する。

私は正直そこまで山にもきのこにも興味がないので、

嬉々として準備をし、山に着くと疲れも知らず一心不乱に何時間もきのこを探す、

母のその熱意の出所が不思議である。

家を出る際に、ガレージの中を久しぶりに見た。

数年前に実家を建て直してから、私はあまり立ち入っていなかった場所だ。

私のお雛様や、兄達の兜や、亡き父の釣り道具など

捨てるには忍びないが、もう使いようがないもの達が置いてある。

それを何気なく見ていると、

父母の歩いてきた人生の軌跡が

家族の輪郭を描きながら、ふいにリアリティを伴って立ちのぼってきた。

若かりし頃の2人が手探りで家庭を営み、会社を経営しながらの忙しい中で、

懸命に私達兄弟を育て、

その中で可能な限り人生も謳歌したのだということが

そこにひっそりと積まれたもの達から、

ある重みを持って伝わってきた。

私は今まで気がつかなかったけれど、

たとえ問題と混乱を抱えていても、家族を守り導くべく奮闘する両親の気概と、

責任感と、

健気に生きた証を見た気がした。

自分もその時の両親と同じような歳になってみると、

私が彼らよりとても気楽に、身軽に生きてきてしまったことを思い知る。

私のミニマムな暮らし方は、見方によっては無駄が少ないとも言えるので、

彼らとは生きた時代が違うといえばそれまでだけれど、

その一方で、人生に対して消極的なのかもしれない、とも感じる。

彼らの、がむしゃらに何かを築き上げようとする姿勢が、

こうして家だったり、

ガレージに鎮座する多くのものとして残されているような気がした。

原家族にあまり恵まれなかった父母が、自分達の家庭こそはと抱いた、

理想や期待や願いと、

それとは違う現実。

違かったとはいえ、

彼らが家族に与えたかったもの。

自分達が得られなかったが故に。

その時、わたしは目の覚めるような想いで、

両親の素晴らしさを知ったのである。

両親だけではない。

そこには、兄の私物も現在進行形で置かれているのだが、

サーフィンの道具や、自転車や、その他の色んな道具を見ていると、

普段は物静かであまり主張しない兄が、自分なりに人生を楽しみ、味わっている様子が伝わってきた。

私は、兄の素晴らしさも思った。

そして、人の素晴らしさを思った。

私は今までなんて人間のことを軽んじていたのだろう、

と恥じた。

けれどこれは、健全な恥の気持ちである。

みんな健気に生きていて、

批判されるべき人などいない。

ささやかな活動の中にも、

守るべき人達への愛や、

想いや、

慎ましく人生を味わう気持ちが

潜んでいる。

無駄だったり、非効率だと思うものの中に、

大切な意味や、込められた想いが潜んでいる。

みんな健気に生きていた。

私は、胸打たれた。

涙が頬をつたった。

身近な人達のことは、わかっているようで意外とわかっていない。

父のこと

母のこと

兄達のこと

ガレージは実家のすぐ横にあったのに、

そこに立ち入るまで気づかなかったこと。

本当に大事なものや、

当たり前にしてしまっているけれど、素晴らしいものは、

日常の自分のすぐ近くにあるのだと

改めて思い知ったのである。

私の中で何かが溶けていくのを感じた。

兄の運転する車の中で、そんな想いに浸っていると、

いつの間か車窓には、見事なまでの錦秋の山々があった。