海辺の暮らし

昔付き合っていた人が、「何もかも捨てて、一緒にどこかの海辺で暮らしたいなぁ」と言ったことがある。

彼の妄想の舞台はなぜかいつも鄙びた漁港で、そこで働きながら6畳一間くらいのボロアパートで暮らすという、昭和の香り漂うものだった。

せっかくの妄想なのだから、せめてもっといい暮らしを想像してもいいだろうと思うのだが、親の期待に応え続けてきた彼にとっては、私と結ばれるためにはそれくらいの設定にしないと、様々なしがらみを断ち切れなかったのだろう。

結局私達はその後お別れしたので、海辺の漁港に駆け落ちする妄想が実現することはなかった。彼は今でもよく会う友達のひとりだ。

先日ひとりで江ノ電に乗り、七里ガ浜へ行った。

そして海沿いを歩きながら、道路沿いに立ち並ぶ豪邸や、渋滞の道路でのろのろ運転をしている高級車を眺めつつ、ふとその妄想のことを思い出した。

海の見える豪邸に住んで高級車に乗っている暮らしと、

海辺の鄙びた漁港でボロアパートに住む暮らしと、

私にとってはどちらが幸せだろう。

だいたい漁港に住んだことはもちろん、行ったことすらほとんどないし、この年で漁港で働くのはきついだろうとか、最終的には2人の仲が悪くなって、喧嘩別れするのがオチだとか、現実的なことを色々考えた。

そして、結局はどちらの生活もあまりしっくりこないなぁという結論に至った。

そんなことを考えながら海辺を歩いていたら、

無性に彼ならどちらがいいと言うのか聞きたくなった。

メールをして、しばらくしてからきた彼の返事は、予想していた通りのものだった。

「どちらも実際住んでみたことがないから、わからない」

それを聞いて少しがっかりした自分がいた。

がっかりしたことで、自分がほんとうはどこかで

「そりゃあ、海辺での暮らしだよ」

と言って欲しかったのだということに気がついた。

けれど同時に、そう言ってもらえなかったことに対する安堵感もあったというのは、我ながらおかしな話である。

私は予想通りがっかりすることで、やっぱり私には彼じゃなかったという確信を得たかったのだろうか。

彼は近々海外に行くことが決まっている。

これで別れをつらく感じ過ぎなくても済む、とほっとしたのだろうか。

自分でもよくわからない。

でももし人の心がそうやって、無意識に自分を守ろうとするならば

心とはなんとも不可思議なものである。

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