先日友人と話していて、彼が昔、長いこと片想いをしていたことを知った。

本人はそんな自分のことを馬鹿だと言って、少し恥ずかしそうに笑っていたが、

いつも控えめな友人が湛えている、そのひたむきさや一途さがよく表れた、いい話だなぁと思って私は聞いていた。

結局彼はその長年の片想いの相手とは結ばれずに、その後可愛らしい女性と出会い結婚し、今は良きパパである。

結ばれない相手との恋の苦しさは私にも身に覚えがあるし、それを彼は青春真っ盛りで経験しているわけで、本当に苦しくて切なかっただろうと想像する。

何をしていても相手のことが心から離れず、けれどその人は自分のことを選んでくれない。

それでも想いは消えずに募っていく。胸焦がす日々。

どうやってその人を心から追い出せばいいのか、わからない。

恋の苦しみとは何なのだろうとひとり思い巡らせていた時、ふと、ある知人とのやりとりが思い出された。

彼は35歳くらいで、そろそろパートナーが欲しいと言っていた。なのでどのような人がいいのか聞いてみたところ、返ってきた言葉は

「絶対年下。自分より上だなんて、考えられないよ。出産のこともあるし。」

私はそれを聞いた時に、なんともさもしくて残念な答えだと感じ、それ以上この話題を続けるのがばかばかしくなりやめてしまったと記憶している。

そして今になって、どうして自分がそれをさもしく感じたのかがよくわかるのである。

苦しいくらいに誰かを好きになるということは、豊かな経験である。

たとえその相手と結ばれようと、結ばれまいと。

その時経験したすべての感情は、

身を灼くような思慕も、身を切るような悲しみや切なさ、絶望も、

恋をしていなかったら感じることはできない、豊かな感情であり、経験である。

感性豊かな友人が、その感性ゆえに多岐に渡る感情を経験してしまうことは一種の宿命とも言えるのであるが、

それでもこの苦しい恋の経験が、彼という人間を一層滋味深く、やさしく、美しくしたのだと思うと、

その恋が宿ったこと自体が、彼が神様に愛されている証拠なのだという気がしてくるのだ。

私は、大好きなその友人が、神様に愛されているらしいということが、

豊かな経験をしているということが、

なんだか自分のことのようにうれしく、誇らしく感じる。

そして私も、せっかくこの世に生まれてきたのだから、清濁併せ呑んで、豊かな経験をしてやろうじゃないか、と心を新たにするのである。