ごめんねが言えない

ごめんねが言えない時ほど、実は気にしているようにも思う。

私もごめんねが言えない方だ。関係が近いと余計に言いづらい。

言ってしまうと、相手との均衡が崩れるような、水くさくて恥ずかしいような、そんな感じもする。

それではいけないなぁと思う一方で、言わない方がいい時もまたあるように思う。

小学生の頃、隣の席の吉田君と仲が良かった。

仲が良い、というのは語弊があるかもしれない。気心知れた仲と言った方がいいのか。

小学校高学年というのは大抵みんなツンデレで、低学年の時ほどは素直ではないが、思春期ほどは反抗的ではない、そういう年頃である。

だからその頃の男子と女子は、お互いけなし合いながら気心を通じ合わせていくもので、それを「仲良し」と呼ぶのはちょっと違う気がする。

隣の席とか同じ班の級友というのは、親友ではないが、どこか疑似家族のような、兄弟のような気心の知れ方になってくる感がある。

ある日、習字の授業があった。

習字の授業では、自分の狭い机の上に半紙や筆や硯や見本を置くので、準備が大変めんどくさく、その不自由さも、手が汚れるのも、後片付けの大変さも、思い出すだけでもあー大人になれて良かったと思うのだが、

ある時、吉田君が自分の机から硯を落とし、床に墨をまき散らしてしまった。

そして、私のワンピースの裾にも墨がかかり、黒い染みをつくった。

ただちにしっかり者のクラスの女子達が奔走してくれて、私のワンピースは水道で洗われ、床の墨も拭かれた。

けれど、私の服についた無数の墨の跡は消えなかったのである。

この出来事は、クラスでよく起こる日々の小さな事故のひとつとして取り扱われ、処理されていったわけだが、

吉田君はその日はそれきり私に話しかけてこなかった。

その日の夜に吉田君のお母さんから丁寧な謝罪の電話をいただいたのだが、

吉田君はついに私に、ごめんねと言えなかったのである。

けれど、彼がこのことを気にしているのは、子供心にも痛いほどわかったし、

私も、ごめんねと言われないように、そしてこの件がクラスの話題にのぼらないように、気をつけていた気がする。

というのも、ごめんねは私達にはなんだか合わないのである。

それを言われたら、こっちも身の置き所がなくなる気がするし、水くさいというか、ありがとうとかごめんねとか、そういう改まったものは、全然「らしく」ないのである。

もしあの時ごめんなんて言われていたら、やはりどう返していいのかわからなくて反応に困るし、言われなくて良かった、と今でもそう思う。

吉田君は申し訳ない気持ちと失敗感をいっぱい持っていて、ごめんと言えないくらいだった。

私は、謝るなんて水くさいことはしなくていい、というメッセージを、言葉ではなく気配で放っていた。

だからもう、それでいいのだと思う。

お互いに言葉がなかったとしても。

と、ここまで書いてきて、ふと、

いまこうして大人になって、見える形でも見えない形でも、感謝や謝罪を要求していないか

自分の権利や正しさを主張していないか

図太く、図々しくなってないか

と、自問してしまう。

嫌な大人になってないか、と。

幼い頃の自分から今の自分をじっと見られている気がして、ギクリとし嫌な汗をかくのだが、

言葉を超えて、気持ちを汲み想いを伝えなさい、と昔の自分に教えられたような気もして

もう自分を裏切らない、と自戒をこめて、そう小さく誓うのである。