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本当の自分と出逢う旅のはじまり

Message

私が愛してやまないことのひとつに、目に見えないものに光をあて、言葉を与え、それを世に送り出すことがあります。

想い、パッション、夢、ビジョン

魅力、才能、可能性、人生の目的

これらは人の内面の奥深くにしまいこまれていて、いざなわれるのを待っています。

それは私達がこの世界のために持ってきた贈り物。

せっかくそれを携えて生まれてきたのに、その贈り物の存在に気づかないままでいいのでしょうか。

それを眠らせたままで、死ぬ時に後悔しないでしょうか。

出逢う約束としていた人達と、会わないまま、約束を果たさないままでいいのでしょうか。

私はそうは思いません。

やらなくて後悔して欲しくないからです。

私達がその贈り物を受け取り、世界に与えると決めた時、

人生は変容します。

そう生きると決めてきたプランに従って、人生が完璧に展開していたことに気がつき、

偶然が必然に変わります。

 

点と点が繋がり、線となる瞬間。

そして、すべてが運命だったと気づく瞬間。

 

その美しい瞬間に立ち合うことや

私達がもともと持ってきたその贈り物に光を当て、言葉を与え、引き出すサポートをすることに

私は尽きることのない情熱と、歓びと、燃えるような人生の目的を持っています。

ご縁のある方と、約束してきた通りに出逢え、お役に立てることを楽しみにしています。

Today's キーワード

ピンと来たキーワードをピックアップしてみましょう。
真実
真実には、それ自体にパワーと魅力があります。 真実のパワーは、人の目を開かせ その魅力で人々を惹きつけます。 あなたの真実は何ですか? あなたの真実と繋がって、 パワフルで魅力全開な日をお過ごしください。  
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神聖さ
あなたの日常には、どれくらい祈りがあるでしょうか? 祈りはあなたの周波数を神様に繋げる行為です。 祈りはあなたの神性を目覚めさせ、 あなたの中を通って 世界に神の息吹をもたらします。 祈りから始まる、神聖な一日をお過ごしください。
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美しさ
美しさ、優美さ、甘美さ。 それはこの世界を潤し、喜びで満たす、天からの贈り物です。 あなたの日常はどれくらい美で彩られていますか? ひとりひとりの中に必ず存在している、それぞれの美しさ。 それを認めるごとに、私たちの存在は輝きます。 今日はあなた自身の美をしっかりと所有しましょう。
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楽しむ
日常には様々な楽しみが潜んでいます。 人とのおしゃべりや触れ合い パートナーとの親密なコミュニケーション 美しい景色を見て、空気を感じること 心静かに読書する時間。 その全てが神様からの贈り物です。 今この瞬間もあなたにもたらされている贈り物は何ですか? それを受け取り、目一杯楽しんでください。 あなたの今日が楽しさに満ち溢れた日になりますように。  
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誠実さ
自分に対して誠実であることが、 全体に対して最も誠実なあり方であり、 全体の幸せへと繋がります。 自分が感じていること、 自分が思うこと、 たとえそれがポジティブであれ、ネガティブであれ、 自分がそう感じるのだということに対して、 誠実に受け止め、許容していきましょう。 自分に対する誠実さが、世界を救います。 今日が素晴らしい一日となりますように。    
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つながり
今日のキーワードは「つながり」 昨日の「信じる」ともリンクしていますが、 自分自身とのつながりを大事にすることを意識してみましょう。 不安に駆られた時や、 自分を信じられなくなった時、 自分以外の何かにパワーを預けてしまいそうになります。 そんな時は深呼吸して、 改めて自分自身のエネルギーへとつながり直すことによって 安寧を得られるでしょう。 今日は自分の中で憩い、安らぎの中で過ごす一日となりますように。  
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シンクロニシティからのメッセージ

日常に溢れるメッセージを、シンクロニシティーから受け取ります。
自分を表現する
表現することを恐れた時は、 思い出して欲しい。 私達が求めているものは、 「完璧なあなた」という表現では決してなく、 「そのままのあなた」という表現。 人はそこに美しさを見るのだから。 その表現にこそ...
続きを読む "自分を表現する"

Blog

日々の徒然なることを綴っています。

可能性という芽を育む

いつも私に本当のことを伝えてくれる、友人のM子が言った。

「るりには自分の『無価値感』を突破する心のタフさが足りない。無価値感が出ても、それに直面して掘り続けたその先にしか、温泉は湧き出ないんだよ。」

本当にその通りだ。そして、よくまぁこんなに見事に私のことを見抜き、ズレがなくしかもわかりやすく表現できるものだと、感心する。イタ気持ちいいくらいだ。こういう友人の存在は宝だ。

ちなみに、私は少し掘ってみては無価値感という岩にぶつかり、さっさとそこを掘ることを諦めて、他の場所を掘り始めるタイプだ。パートナーシップも、はじめこそ「運命の人だ!」と騒いでみたりするが、それはある意味騒ぐことで気を紛らわせたり、パートナーを持つことで無価値感を埋め合わせるという目的であって、本質ではない。そして、すぐに「やっぱり人違いだった」と結論づけるパターンによってこじらせ続けている。

M子の洞察を母に伝えると、首がちぎれるほど激しく同意してうなずいていた。「よくぞ言ってくれた!」くらいの会心の笑みを浮かべていたので、母も長年そう感じていたことが、だいぶあからさまに伝わってきた。

私は行く先々で誰かの期待に応えたり、受け入れられやすいキャラを作ったりして、自分の居場所を確保してきた。もう今やそれは無意識でやってしまうのだけれど、無理したり演じたりしている分疲れきってしまう。でも、これ以外の処世術を知らなかった。

その後、自分らしく生きている人達の魅力や素晴らしさに触れるにつけ、私もそのように生きたいと思うようになった。本物の持つ魅力や目の醒めるような輝きは、嘘に疲れた私のような人たちを癒し、凍った心を溶かすあたたかなエネルギーだ。それこそ温泉のように。

M子の言葉で、改めて私はどの分野を掘るのかを決めなければいけないと思った。幸いなことに、興味の幅がすごく狭い私は、好きなことが少ない。もし私が器用な上に好きなこともいっぱいあったら、あれこれ試食しているうちに、メインディッシュに辿り着く前に糖尿病になっていただろう。けれど私は同じものを食べ続けて糖尿病になるタイプだから、選択肢では迷わない。どのみち糖尿病になる宿命は悲しいけど。

書くこととパートナーシップ。どちらもまだ芽が出る気配もまったくない、地面の下に眠っている種でしかない。一生芽が出ないかもしれず恐くなるし、出てきたその芽がカッコ悪くて笑われたらどうしよう、いい歳こいて惨めだなとも思う。それでも、水や太陽の光のような慈悲と滋養を、辛抱強く自分自身に注いであげようと決めて、これを書いている。いたずらにその可能性の芽をみずから摘むことなく守っていきたい。そして、その種に注いであげる滋養は、できれば美しく純粋なものでありたい。

それはたとえば、

信じるとか

ゆるすとか

愛するとか

そういったものだ。

脈動する世界のはじまり

また書きはじめたおかげで、色々と感じさせられている。

新しいことをはじめる時は、不安がつきものだ。まわりが思う以上に、本人のなかでは、「どうせ続かないよ」とか「また口だけだね」とか、辛辣な声が鳴り響いている。

そんな時にエールを送ってくれる人の、その心意気のありがたさ。心細い時こそ、誰かが送ってくれるまっさらな応援の気持ちは、いつもより何倍も胸に沁みる。

その恐さから、私はプールの飛び込み台に立つ機会が年々減っていた。だから、この心細い気持ちを味わうことが、いつの間にか減っていたことに気がついた。私はその間ずっと、ただの観客として無責任でいられた。

チャレンジしなくなることの弊害は、それだとなにもはじまらないだけじゃなく、誰かからかけてもらえる言葉や気持ちのそのあたたかさとか、ありがたさを、受けとりそびれてしまうことなのだと思う。

私が失敗して恥をかくことを恐れて引きこもり、傷つくことから自分を守っている間に、いつのまにか心の動きは鈍くなっていった。だから、みんなの言葉や気持ちのその温度を、そのあたたかさを、うまく感知できなくなっていたのだろう。

こうして新しいことをしはじめたら、その不安と怖さとドキドキで、心がふたたび脈動しだした。以前よりも自分のまわりの世界の温度を感じられるようになり、そのおかげで世界も色づきだした。

いま世界が変わりゆくなか、新しいことをはじめざるを得ない人達が増えてくることは、きっとなにかの恩恵だろう。たくさんの人の心がドキドキと脈動しだし、動いた分だけ

その熱もやわらかさも

冷たさも固さも

甘さもほろ苦さも

いまより生き生きと感知できるようになることは、新しい時代にとってはきっと、豊かさでしかないのだから。

旅へのいざない

先日お茶会を開催し、そこで「海」と「旅」というキーワードがでた。

それは誰かへのメッセージであって、私のではないとやり過ごしていたら、ある時気づいてハッとした。

というのも、思い返せばそれはあまりにも頻繁に、私の心をノックしていた。

呼びかけといっても、いいくらいに。

 

気づいたとたんに、かきむしられるように想いが募り、

寂寥感に、襲われた。

 

これまでに海と対峙した、さまざまな場面が思い出された。

沖縄の、なんの迷いもないような透明な海。

けれどそこここに点在する、どうしようもない悲しみ。

 

尾道の坂の上から眺める、穏やかな、春の日なたのような、瀬戸内海。

どこまでもあたたかく、ゆるされている気持ちになる。

 

ただ海沿いを歩くだけで、さわやかに、でも少し切なくなってくる、由比ガ浜。

江ノ電の鎌倉高校前駅で降りると、目の前いっぱいに広がる夏の海。海風で心洗われる瞬間。

 

どのシーンも思い浮かべるたびに、たまらなく心掴まれて、

少し苦しくなる。

 

きっとこの夏、多くの人が旅へといざなわれ、

それぞれのゆかりのある土地と、思い出を結ぶだろう。

 

そうやって何かが少しずつ進み、

うごめき、

心ときめいたり、

切なくなったりしながら、

 

今という一瞬が、

どんなに素晴らしくても、

とどめておくことなどできずに、

刹那に過去の思い出になってしまうという

 

その現実の儚さと

けれど思い出として永遠に刻印されるという

その幸福の

どちらも味わうだろう。

 

どこからともなくやってくる、

旅へのいざない。

 

あなたも、ひとたびいざなわれたのなら、

抵抗などせずに、足を運んでみたらいい。

失うものなど、ほんとうは、何もないのだから。

 

旅の気配に取り憑かれたら、

やもたてもたまらないような、

そんな気持ちにしてしまうのが、

夏というものの持つ

不思議な魔力なのかもしれない。

 

 

ふたりで歩く

誰かとふたりで歩くということを、久しくしていなかった。

 

それは、駅まで歩くとか、

会社まで戻るとかの、

「手段」として歩くことではない。

歩くこと自体を目的とした、「歩く」ということ。

 

誰かと一緒に歩くと、その相手のことが、よくわかる気がする。

その人の、いままで知らなかった側面が、浮かびあがるから。

 

なにを話すかは、あまり重要ではない。

むしろ言葉は邪魔だったりする。

それよりも、一緒にいてどんな感じがするかとか、

どんな気分になるかが大切。

その日、街路樹の緑は目に鮮やかで、

広々とした道に、爽やかな風が吹き抜けていた。

ゆるやかな坂をのぼったり、くだったりしながら、

街も人も活気に満ちていて、

太陽も眩しい。

 

そんななかをふたりで歩いていると、

楽しい気分になったり、

次はこれしたい、あそこに行きたい、など

色んな場面が思い浮かんだりする。

 

ひとりで見るのとはまた違った、

景色が見えたり、

印象を受けとる。

 

ふたりで歩くということが、思いがけずわたしに、

新しい世界を見せてくれた。

いつもとは違う時間に、

いつもとは違う道で。

 

私は少し驚いた。

グループでわいわい楽しんだり、

ひとりで思索にふけりながら歩くのとは、

また別のインスピレーションを受け取ったから。

 

ひとりの人間が亡くなるのは、1つの図書館の喪失と等しいのだと、読んだことがある。

本当にそうだと思う。

 

その人の一生分の経験なり、気づきなり、感慨なりが、言葉にならないその存在というものに詰まっていて、

一緒に歩いていると、語らずとも、

それがふわり漂い、

混ざりあい、

私たちに影響を与える。

 

初夏の昼下がりの、つかの間の休息がわたしにもたらしくてれた、

思いのほか大事なピース。

 

誰かとふたりで歩くことの良さを、

心で知った瞬間である。

 

デジャ・ヴ

デジャ・ヴに遭遇した時の、不思議な感覚が好きだ。

 

近所に、小高い山がある。都会のど真ん中に位置する、その山の上には神社がある。

そこからぐるり山沿いに配した階段を下りていく時の光景が、とても美しい。

 

薄い水色と淡い茜色が柔らかく混ざった空と、森の深い緑。

少しずつくだっていく、長い木の階段を歩いていると、森に抱かれつつ、空に浮かんでいるのだと、一瞬錯覚する。

 

階段が始まるところから、木々は鬱蒼と繁りトンネルのようになっている。

ある初夏の宵のこと、そこに立っていると、ふと、この光景をどこか知っているような気がした。

 

あぁ、デジャ・ヴかしら。

 

そう思った。

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冬の記憶

軽井沢といえば夏の避暑地としての爽やかな印象が強いかもしれないが、私にとっては真冬の雪深い時期の方が思い出深い。静かに雪が降り積もっていく厳粛な雰囲気とその風景を思い出しながら、あの頃の自分の心情までもがある種の感慨を伴って目の前に浮かび上がってくるのは、今日の都内の寒さが私の体感覚を呼び覚ましたからなのかもしれない。

私は恋人と二人で、冬の軽井沢を訪れた。そこがこんなにも雪深い土地だとは知らなかった私は、大型ショッピングモールを有するリゾート地としての華やかさの裏に、少し時代遅れになってしまった悲哀のようなものを感じつつも、時を経ても変わらず雪や寒さという現実的な問題に黙々と対峙し続けてきた、その土地の人々の実直な暮らしぶりを垣間見た。

私達は落ち着いたモダンな設えの蕎麦屋に入り、そこで温かい蕎麦を食べたり日本酒を熱燗で頼んだりしながら、大きな窓ガラスに映る雪降り積もる外側の世界を静かに眺めていた。きっと都内であればパニックになるだろう雪の量であったが、軽井沢の街はいつもとさほど変わらぬ風情でただ息を潜めて、粛々とその営みを続けていた。それがあの土地が湛えている独特の強さと静謐さなのだった。

雪が降り止まぬなか、その後私達がどこへ行ったのかは忘れてしまった。けれど、あの果てしない雪景色としんとした土地の空気、そしてあの頃の心情は確かにこうして私に中にあり続け、ふとした拍子に浮かび上がり、なんとも言えない温かさと幸福感をもたらしてくれる。それは過ぎし日への思慕でもあり、場所というものが湛える不思議な記憶であり、私が魅かれてやまないものたちなのである。

分かれ道

会社の同僚男性とランチに行った時のこと。

彼には年上の奥さまがいるのだけれど、話を聞いていると

2人の間に流れている愛や信頼や尊敬のエネルギーを感じ、目の醒めるような思いがする。

新婚さんのフレッシュなそれとは一線を画すのは、様々な違和感を乗り越えて、だんだんと歩調が合ってきたと語る彼のその語り口に、彼女がいてくれて、日々彼を支えてくれていることへの感謝が滲み出ていたからだろう。

ビシッと筋の通ったその奥さまのお陰で、彼が以前よりも責任を取って生きられるようになったり、それにつれて器が大きくなっていったり、人としての魅力が増して行っているのが、伝わってきた。

私は「パートナーシップは苦しいもの」とどこかで思っているから、この二人の関係性にはっとした。

「関係性を構築する」ということから逃げてしまっている私とは、というか、「どうせ壊れるならそもそも深い関係性を持たない」というスタンスにいつの間にかなってしまっている私と彼とは、こうしてどんどん差がついていくのだということを思い知らされた気がした。

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秋の気配

家族4人で山に来ている。

秋になると、山にきのこを採りに行くのは、

私が小さい頃からの家族行事だ。

ただし、父母の山への熱意は、実に家族行事以上のものがあり、

2人の職人性が発揮される場でもあった。

私は山から滑り落ちてトラウマになることもあったし、

両親は山で熊にも何度か遭遇したりしている。

それでも、2人は山へ行くことを決してやめなかった。

父はもう亡くなっているので、あの頃の熱意を引き継いでいるのは

母だけになり、兄と私と息子は、母の付き添いのような形だ。

母もさすがにもう高齢なので、滑落しそうな険しい山には分け入らなくなった。

山へ行く日の朝は、とんでもなく早起きをして暗いうちから出発する。

私は正直そこまで山にもきのこにも興味がないので、

嬉々として準備をし、山に着くと疲れも知らず一心不乱に何時間もきのこを探す、

母のその熱意の出所が不思議である。

家を出る際に、ガレージの中を久しぶりに見た。

数年前に実家を建て直してから、私はあまり立ち入っていなかった場所だ。

私のお雛様や、兄達の兜や、亡き父の釣り道具など

捨てるには忍びないが、もう使いようがないもの達が置いてある。

それを何気なく見ていると、

父母の歩いてきた人生の軌跡が

家族の輪郭を描きながら、ふいにリアリティを伴って立ちのぼってきた。

若かりし頃の2人が手探りで家庭を営み、会社を経営しながらの忙しい中で、

懸命に私達兄弟を育て、

その中で可能な限り人生も謳歌したのだということが

そこにひっそりと積まれたもの達から、

ある重みを持って伝わってきた。

私は今まで気がつかなかったけれど、

たとえ問題と混乱を抱えていても、家族を守り導くべく奮闘する両親の気概と、

責任感と、

健気に生きた証を見た気がした。

自分もその時の両親と同じような歳になってみると、

私が彼らよりとても気楽に、身軽に生きてきてしまったことを思い知る。

私のミニマムな暮らし方は、見方によっては無駄が少ないとも言えるので、

彼らとは生きた時代が違うといえばそれまでだけれど、

その一方で、人生に対して消極的なのかもしれない、とも感じる。

彼らの、がむしゃらに何かを築き上げようとする姿勢が、

こうして家だったり、

ガレージに鎮座する多くのものとして残されているような気がした。

原家族にあまり恵まれなかった父母が、自分達の家庭こそはと抱いた、

理想や期待や願いと、

それとは違う現実。

違かったとはいえ、

彼らが家族に与えたかったもの。

自分達が得られなかったが故に。

その時、わたしは目の覚めるような想いで、

両親の素晴らしさを知ったのである。

両親だけではない。

そこには、兄の私物も現在進行形で置かれているのだが、

サーフィンの道具や、自転車や、その他の色んな道具を見ていると、

普段は物静かであまり主張しない兄が、自分なりに人生を楽しみ、味わっている様子が伝わってきた。

私は、兄の素晴らしさも思った。

そして、人の素晴らしさを思った。

私は今までなんて人間のことを軽んじていたのだろう、

と恥じた。

けれどこれは、健全な恥の気持ちである。

みんな健気に生きていて、

批判されるべき人などいない。

ささやかな活動の中にも、

守るべき人達への愛や、

想いや、

慎ましく人生を味わう気持ちが

潜んでいる。

無駄だったり、非効率だと思うものの中に、

大切な意味や、込められた想いが潜んでいる。

みんな健気に生きていた。

私は、胸打たれた。

涙が頬をつたった。

身近な人達のことは、わかっているようで意外とわかっていない。

父のこと

母のこと

兄達のこと

ガレージは実家のすぐ横にあったのに、

そこに立ち入るまで気づかなかったこと。

本当に大事なものや、

当たり前にしてしまっているけれど、素晴らしいものは、

日常の自分のすぐ近くにあるのだと

改めて思い知ったのである。

私の中で何かが溶けていくのを感じた。

兄の運転する車の中で、そんな想いに浸っていると、

いつの間か車窓には、見事なまでの錦秋の山々があった。

朝の邂逅

朝目が覚めて、階下へと向かう。

母とダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら話す。

昨夜見た夢。
息子の話。
人生の不思議さ。
意味のある偶然。

そして、母の話へと移る。

母の中に長くあったしこり。

母とその原家族との怒りや悲しみのドラマ。

拭いきれなかった痛み。

自由という名のよるべなさ。

私の父との間のこと。

才能があったのに、

才能があったが故に、

自分の痛みに飲み込まれてしまった父。

言葉がいらないくらい、敏感に察することができる2人だったのに

いつしか溝ができてしまったこと。

そこにあった数々のすれ違いや、誤解。

がっかりしたことや、苦いままの思い出。

あまり語られてこなかった、母の後悔。

けれど私は思う。

後悔は、愛が深いからこそ抱くものであり、

痛みは、心が柔らかくて繊細だからこそ、生じるものなのだと。

だから誰も悪くない。

ただ愛が深いだけ。心が柔らかいだけ。

痛みの下にたくさんあった、才能や愛。

そこにある、父母の真実の姿。

 

そしていま、それらが少しずつ紐解かれて行って、

新しい光のもとで見直してみると、

ひとつひとつの出来事に潜む

「癒しなさい」という小さな呼び声。

つらい時でも、ずっと何か大いなるものに守られていたという、

その感覚。

大変なことも、悲しいことも、たくさんあったけれど、

それが全部、今の幸せに繋がっていたという、

慈愛の存在。

話しながら、母は泣いていた。

私も泣いていた。

私達は同志だった。

そして時と共に形を変えながら、今も深く繋がっている。

悲しみも絶望も、喜びも真実も、分かち合いながら。

 

諦めても、諦めても、

また立ち上がるだけなのだと思う。

諦めないなんて無理だから。

諦めて。

諦めて。

諦めの底から、何かを掴んで

また始めるだけ。

でも、それでいいんだ。

と、そんなことを思った。